大阪城 謎の石垣公開!

昭和30年代に初代大阪城の石垣調査のためにボーリングされた穴があります。テントのところに穴があります。
現在は、こんな感じです。
底に見えているのが初代大阪城の石垣です。
以下は、現在配布中のパンフレットから引用しました。
謎の地下石垣一般公開
豊臣秀吉の築いた本丸の石垣を30年ぶりに公開
会期:平成13年11月7日から11日
会場:大阪城本丸内仮設展示場
主催:大阪市、(社)大阪観光協会
後援:読売新聞大阪本社
 豊臣秀吉が、天下統一の拠点として天正11年(1583)から16年もの歳月をかけて作り上げた最初の大坂城。そして、その大坂城が大坂夏の陣によって焼け落ちた後、新たな天下人である徳川秀忠・家光父子によって元和6年(1620)から11年の歳月をかけて作り薄された二度目の大坂城。ひとくちに大坂城といっても、歴史的にはこのこつの大坂城があることはご存じの方も多いでしょう。

 それでは、大坂夏の陣のあと、秀吉の築いた大坂城の堀や石垣はどうなってしまったのでしょう。
徹底的に破壊されたのでしょうか。それとも部分的にでも再利用されたのでしょうか。豊臣時代と徳川時代の堀や石垣をめぐるこの問題は、長い間確かな答えのない謎として残されてきました。

 こうした大坂城の謎を解明するために、1959年(昭和34)に行われたのが、『大坂城総合学術調査』(主催は、大阪市・大阪市教育委員会・大阪読売新聞社)です。
 調査では、まず「大坂城は洪積層の固い地盤の上に直接築かれている」というこれまでの定説を確かめるために、本丸でサウンデング調査という簡易な調査が行われました。ところが、その結果、大坂城は、少なくとも十数メートルの厚さの人工の盛土の上に造られているという意外な事実が判明しました。そこで、これを受けて5月から本丸中央部でコア・ボーリング調査を行ったところ、地下約10メートルのところで思いがけず、3層に積み上げられた花崗岩の“ナゾの石垣”を探り当てたのです。そして、12月にボーリング地点を中心に3メートル四方の大きさで発掘調査を行った結果、ついに地下約7.5メートル以深から未知の石垣が姿をあらわしました。石は、現在の大坂城の石に比べるとかなり小ぶりで、積み方もいわゆる野面積みといわれる古式なものでした。

当初は、この石垣を秀吉築造のものとするには慎重意見も多かったのですが、それでも現本丸の地下深くに古い積み方の別の石垣が眠っていたということは、大坂城の研究者や秀吉ファンにも大さなショックを与えました。
 ところが、偶然にも翌年、徳川幕府の京都大工頭をしていた東京の中井家から豊臣時代の大坂城本丸図が発見されました。そして、その後その図と地下石垣の位置の照合・検討を重ねた結果、この石垣は、3段に築かれた豊臣時代本丸の奥御殿を囲む石垣のうち、2段目の“中ノ段帯曲輪の石垣”の一部であることが確定されたのです。こうして、現在の本丸の地下には、豊臣時代の石垣がいまだに良好な状態で残されていることが判明しました。
 豊臣秀吉の築いた石垣と徳川秀忠の築いた石垣。大坂城は、この二人の天下人の石垣が残る希有の史跡です。この地下石垣の公開は、1971年(昭和46)以来、30年ぶりとなりましたが、いつの日か、地下に眠る豊臣時代の石垣が常時公開・展示できるようになれば、と願っています。
[解説]
 この図は、江戸幕府の京都大工頭であった東京・中井家に残されている「豊臣時代大坂城本丸図」を、書家で大阪城愛好家としても知られていた故・武内勇吉(号歩牛)氏が拡大模写されたものです。
 この図に明らかなように、豊臣時代の本丸は南部の表御殿エリア、南西部の米蔵エリア、そして中央部の広大な奥御殿エリアに大別できます。奥御殿エリアは、秀吉とおね夫婦の居住空間で、もっとも厳重に3段の石垣で守られていました。発見された地下石垣は、◎印の地点です。

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