大阪城バーチャルツアー・その2 |
 (最終更新:2004年11月06日)
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桜など豊かな樹木に彩られる西の丸庭園は昭和40年(1965)に現在の形で開園した有料庭園。6.45haの広大な敷地の約半分33,000平方mは良く整備された芝生庭園となっており、その上で思いっきり羽を伸ばせるのが売り物の一つ。また、園内はソメイヨシノ600本を中心とした数多くの桜木が植えられ春には大阪を代表するお花見の名所となっているが、桜以外にも初夏のツツジ、秋の紅葉、冬のサザンカ、寒椿など一年を通じて季節の草花を楽しむ事が出来るのがここの特徴。また、園内最北端に新設された大阪迎賓館が1995年APECのメイン会議場として使用された事も記憶に新しい。
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【 重要文化財 】 |
・ 千貫櫓 ・ 乾櫓 ・ 焔硝倉 |
【 入園料 】 |
・午前9:00~午後5:00(11~2月は午後4:30まで) ・入場料:大人200円 ・休 日:毎週月曜日と年末年始 |
(観桜ナイター時) |
・時 期:桜の開花により異なります(約1週間) ・入場料:350円 |
【 ご注意 】 大阪城西の丸庭園は平成18年3月25日(土)~5月28日(日)の65日間開催される「第23回全国都市緑化おおさかフェア」の準備のため、平成17年10月1日より休園中です。なお、「緑化フェア」終了後は復旧工事期間(平成18年7月末まで)と養生期間(3~4ヶ月)の間も閉園となる予定です。 | | | |

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・ まずはミニスライドショーで軽く一周
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*見たいところをクリック | | | |

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[ 豊臣時代 ] |
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手入れの行き届いた芝生が一面に広がる | | 豊臣時代の西の丸は大坂の陣以降、全て破却されている上、図面等の資料は一切残っていない為、縄張に関して正確な事は分っていない。ただ徳川時代の再建工事の折、外堀の石垣普請(京橋口より西側の一部)を担当した土佐・山内家が現場の様子を国元に書き送った書状の中に、土中に残った豊臣時代の根石まで掘り起こし同じ位置に新たな石垣を築き直したという記述があるのを見ると、少なくとも西側外堀に関しては現在とほぼ同じ位置にあったと考えて良さそうである(岡本良一著・大坂城より)
ちなみに豊臣時代の西の丸造成は天正十四年(1586)の外郭築造工事の一環として行われ同年秋にはおおよその形がついていたらしい。ここは本丸と並んで大坂城の表舞台としての役割を果たしていた場所だけに歴史上のエピソードが数多い。大和大納言・豊臣秀長の屋敷がここにあり、秀吉の天下行政の一環を担う迎賓館として使用され数多くの賓客がここに招かれたこと、文禄3年(1594)、秀吉側室No2の京極竜子が西の丸御殿に入り、翌年伏見城に移るまで「西の丸殿」と呼ばれていたことなど、公私ともに派手な話題が数多い。
秀吉没後は五大老筆頭・徳川家康と石田三成を中心とする五奉行の対立が急速に表面化する中、慶長4年(1599)9月、京都・三本木に隠棲した北の政所の後を引き継ぐ形で徳川家康は西の丸御殿に移り住む。家康は豊臣家恩顧の大名巻き込みのための調略活動に専念すると同時に西の丸内に小天守閣を築くなど専横の限りを尽くし、それらの事が彼の思惑通りに翌年の関ヶ原の合戦へと繋がってゆく。
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野外コンサートなども開かれる | | そして慶長19年(1614)の大坂冬の陣の講和に際して、徳川方は大坂城の二の丸、三の丸を破壊し外堀はもちろんの事、内堀(現在の外堀)までも埋めつぶしてしまった。二の丸の一部を占める西の丸もこの時潰され、さらに残っていた建造物(家康が築いた小天守は夏の陣まで残っていたらしい)も翌年の夏の陣で全て灰燼に帰してしまう。いずれにしても、石垣を含めて現在残っている遺構は全て徳川幕府によって再建されたものなのである。
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[ 徳川時代、および明治以後 ] |
徳川幕府による大阪城再建は元和6年(1620)、将軍秀忠の命により、主に西日本各地の諸大名の普請によって開始された。この再建工事は間に数年の間隔をはさみながら三つの段階に分けて進められ、実に寛永6年(1629)まで9年の月日を要することになる。
西の丸を含む二の丸の西、北、東三方面の築造はこの最初の段階で着手されたものである。この時、土木工事の総奉行にあたったのは藤堂高虎であったが、一方、建築工事の総奉行には幕府旗本であった小堀遠州が任命されている。現在、西の丸に残る古建築のうち千貫櫓と乾櫓の二棟はともに元和6年築造であることが解体修理の折に確認されており、いわば小堀遠州の遺作とも言うべきものである(焔硝倉は貞享2年(1685)の建造)。江戸期のこのあたりは北から各種倉庫が並んでいた元々の西の丸、2600坪あまりの城代屋敷、お花畑と順に並んでいた。しかし、それらのほとんどは幕末の戊辰戦争の城中大火で焼失してしまう。
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内堀を通る上水道の配水管は戦前、隣接する大阪砲兵工廠で作られたもの | | 明治以降、大阪城全域は軍部の管轄するところとなり、西の丸一帯は工場用地、倉庫として使われていた。この期間の詳しい事は解らないが、焔硝倉、八角薪蔵などは一部軍部が手を入れて使用していたようである。現に八角薪蔵などは昭和初めあたりまで残っていた形跡がある。しかし、太平洋戦争末期の激しい空爆により坤(ひつじさる)櫓など、明治維新の大火をくぐり抜けたいくつかの江戸期の貴重な建造物はここ西の丸でも失われてしまうことになる。
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[ その他エピソード ] |
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現在の西の丸庭園内には大阪管区気象台指定の桜の標準木があり毎年、大阪地区の桜の開花の目安となっているのは有名な話。しかし、桜の他にも西の丸内を歩いてみれば椿、いろはかえでなど他にも気象台指定の標準木とされている物があるのがわかる。訪ねた時に一度探してみてください。
大阪管区気象台指定の標準木各種。桜だけではないのです |
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つばき |
いろはかえで |
ソメイヨシノ | |
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 クリックして二の丸へ移動(近日アップ予定) | |
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